外国人社員と働くにあたって、よくある日本人の働き方に対するギャップについて、参考になる資料をいただきましたので紹介します。
◎古代ギリシャの「労働」観:
○働くこと(必要に迫られて行う物質的な諸活動)
=「不自由」で「卑しい」活動
○真に「人間的」で「自由」な活動とは?
=「真」・「善」・「美」
「働くこと」は「喜び」か「苦しみ」か?
―→キリスト教(ローマ帝国下で発展したカトリック)の「労働」観:
『神はいった。「園の中央に生えている木の実だけは、食べてはいけない」と。
イヴがみると、その木の実はいかにもおいしそうで、賢くなるようにそそのかしていた。イヴは実をとって食べ、それを渡されたアダムも食べた。
その日、風の吹くころ、神が園のなかを歩く音が聞こえてきた。……
アダムをみつけた神はいった。「取って食べるなといった木から食べたのか。」
アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」
神はイヴにいった。「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。」
神はアダムにいった。「お前は女の声に従い、取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。』
(旧約聖書『創世記』第三章より〔新共同訳〕参照)
―→宗教改革(キリスト教プロテスタント)の「労働」観:
「神はアダムに、いたずらに時を過ごすことのないようにと、パラダイスで植え、耕し、守る仕事をお与えになった。これはまったく自由な行いであったし、ただ神の御心にかなうことのためになされた。・・・ただ、神の御心にかなうようにと、このような自由な行いをすることを命じられているのである。」(マルチン・ルター『キリスト者の自由』第二二より〔徳善義和訳〕参照) 「もし彼が、彼の身分や職務の中に留まり、求められていることを行うならば、彼は悪い木ではありえない。・・・神が命じられている行いは、人が決して悪と呼ぶことのできない価値を持つに違いないからである。」(マルチン・ルター『「山上の教え」による説教』聖マタイの第七章より〔徳善義和・三浦謙訳〕参照)
◎近世(江戸時代)日本の「労働」観:
「家業」(←日本独特のイエの理念との結びつき)
○家族の生活のための「生業(なりわい)」の側面
○社会(世間)から与えられた分を果たす「職分」の側面
← ・荻生徂徠の「全人民役人」論
・石田梅岩の「四民の職分」論
→ 「家族(イエ)のため、社会のために働く」日本人の意識
→ 「準イエ」としての「企業共同体」
→ いま、その意識はどれだけ残っているのか?
「働くこと」の意味と課題
◎「働くこと」の意味
○働くことの「社会性」と「経済性」(=喜び)
○働くことの「他律性」と「手段性」(=苦しみ)
→ ・これらの複数の側面があること
・他人は自分とは違う労働観をもっている可能性があること
・自分の労働観は社会から無意識のうちに押し付けられているかもしれないこと
◎これまでの日本では、「働くこと」の「喜び」としての側面が重視されてきた。かつ、それが企業共同体という「集団」と結びついて展開されてきた。
→「働くこと」に内在する「他律性」や「手段性」が軽視され、働いている「個人」が自分自身の存在や目的を見失う事態が社会的に広がっている(過労死・過労自殺、私的生活の軽視など)。
◎ではどうするか?
○働くか、働かないかは個人の価値観・判断に任せる?
→・個人の自由な判断・決定が他人に迷惑をかけていることはないか?
・そもそも個人で合理的な判断ができているのか?
⇒さまざまな環境や状況にある人が、その希望に応じてそれぞれの潜在能力を発揮できるような公正で活力のある社会を実現しよう!cf. アマルティア・セン(池本幸生・野上裕生・佐藤仁訳)『不平等の再検討-潜在能力と自由』(岩波書店、 1999)
= 多様性(Diversity) と 潜在能力(Capability)
それを支える皆さんの意識と社会制度
基本的な価値観の違いがあることを理解することが、ダイバーシティー環境で外国人と良いチームを作る基になると思います。